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湯葉について

豆腐の味にも似ているのですが、淡いばかりでなくどこか深さをを秘めた高尚な味わいを誇る湯葉。
湯葉とは豆乳を熱したときに表面にできる薄い膜のことで、まさに大豆の香りと旨味が凝縮された
逸品です。
その味たるや洗練を極め、豆腐とともに日本料理には欠かせない食材となっています。

永く精進料理や会席料理に用いられている湯葉は、もとは禅僧を通じて中国から渡来したもの。
その時代は、仏教伝来と同じ頃だとみられています。おそらく当時は、製造の工程における手間
ひまを考えると、庶民にはとうてい手の届かない高級品であったことでしょう。

文献に記された湯葉の歴史的資料といえば、元禄九年(1696 年) に刊行された年間の
茶会席献立の解説書 「茶湯献立指南」。
献立のひとつとして、「たうふのうば」とか 「丸うば」 などと湯葉と思われる食材が
顔をのぞかせ文化とともに育まれ、伝えられてきたその存在を知らしめています。

現在では、全国的に馴染み深いのは、ぱりぱりに乾燥した干湯葉。
これは本来の湯葉をよく乾かしたもので、その姿も味も少しばかり情緒に欠けるように感じます。
その点、引きあげて水気を切っただけの状態である「生湯葉」 とか 「汲み上げ湯葉」 とか
呼ばれるものは、通の目と舌を存分に楽しませてくれます。

京料理に登場するのはおもに後者の方で「京湯葉」 といわれて絶賛されています。
「京にて味よきもの、麩、湯葉など、水菜、うどん」 といったのは、
江戸時代の読本(よみほん) の作者滝沢馬琴。

古くから各地に名を馳せた京湯葉は、現在までに多くの食通や名士に好まれ、食されてきました。
かの川端康成も京湯葉をこよなく愛したひとりで、この地を訪れた際には必ずといっていいほど
食べたといわれています。

豆腐と同じで、水の清らかな場所でしか名物となるほどのものが生まれないのは、
湯葉にもいえることのようです。
生湯葉に箸を運んで噛みしめば、むっくりとした歯ざわりとともに、何層にも折り重なった膜の合間
からほのかな甘みがじんわりと感じてきます。

その上品で繊細な味は、歴史と文化を司る京都という土地柄にひときわ似合っているように感じます。

高貴な方に重んじられていたその湯葉が、禅僧によって日本各地に広められていきました。
湯葉のもつ高栄養化と消化吸収の良さが、僧堂生活者が食す精進料理を支えていました。
その必要性から、各地で独自に発展していったと考えられています。

食材豊富な現代人には、あまり考えられないことだと思います。

何につけても、しとやかに椀のなかに佇みながらも、しっかりと舌にこたえる湯葉の味わいは、
いかにも日本料理の心、食通の人の心をうつし出しているようです。

福井県は継体天皇永平寺を通して、歴史的にみても古都との縁が深い土地柄です。
この地にあっては、湯葉の伝承が確実に継承されているようです。
一時は途切れましたが、今では『越前湯葉』として復活を遂げました。
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その禅僧とは・・・鑑真和尚だと言われています

湯葉の歴史を紐解くと約1200年前頃、鑑真和尚によって京都に伝えられた。
その後、山岳修行に赴く僧侶達によって日光へと伝わった。
京都では湯葉、日光では湯波と書く。京都・日光が日本の二代産地。
ちなみに麩は、鎌倉末期に、これも禅僧が中国から伝えた。
湯葉同様に、僧侶の重要なタンパク源として愛用されて来ました。
ちなみに生麩は、小麦粉の中のタンパク質グルテンと、もち米を混ぜ合わせ、
それを熱湯で茹でたもの。

昔、聖武天皇の時代に、鑑真という徳高い僧がいた。
この人は、元々中国の江陽懸の人だった。淳于という姓だった。
十六歳のとき、則天武后の時代に、知満禅師という僧について出家し菩薩戒を受け、
竜興寺という寺に住んだ。彼はそこで戒律を長年を守り続け、老年に至るのだった。


ある時、日本から仏法を学ぶために、栄睿(ようえい)という僧が来た。
彼は鑑真に、日本には、経典はあってもそれを教え伝える人がいないと言い、
鑑真に、日本に来ることを勧めたのだった。
 
そこで、栄睿とともに日本に渡ることを決めた鑑真は、竜興寺を出て長江を下り、蘇洲に至った。
そのとき連れていた人間は、僧十三人、尼三人、俗人二十四人だったという。
その他、仏舎利、仏像、経論など、多くのものを持っていった。

しばらくして、鑑真は、日本の薩摩に着いた。大伴胡満(こまろ)という人に頼み、
天皇に自分の渡来を奏上し、難波に着いた。

天皇はこれを聞き、大納言・藤原仲麿を遣わして、ここに至る経緯を聞いた。
丁度東大寺を造り、戒壇をたてて戒律を伝えようとした天皇は、喜んで鑑真を迎えたのだった。

その後すぐに、東大寺の大仏前に戒壇をたて、鑑真に、受戒の儀式を司らせ、
天皇・皇后・皇子と戒を受けた。
次いで、僧八十人が戒を受けて後、大仏殿の西に、別に戒壇院を設け、様々な人が受戒した。
さらに皇后の病を治したことで、大和上という位についた鑑真は、新田部親王という人の旧宅に住み、
そこに招提寺を建てた。

その後、顔を西に向けた和尚は、座を組んで死去した。(欠文)。
「死んで後三日たっても、頭が温かったら、その人は最高位の菩薩である」と言われ、
人々は、鑑真こそ最高位の菩薩であることを知ったのだった。

鑑真の墓は、招提寺のそばに建てられた。日本の戒壇は、この鑑真によるものが最初であるという。
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仏教とはなんだろう

仏教は、紀元前6世紀(紀元前5世紀説も有)に、インド、ネパール国境付近のシャカ(釈迦)族の
王子として生まれた釈尊の教えです。

釈尊は青年時代に、人の生・老・病・死などの苦悩に深い思いをいたし出家。
約6年間にわたる苦行や瞑想により、仏陀(覚者)となられ、四諦八正道(正法)を唱えました。
人の迷いの原因(苦・集)をなくす(滅)には、正しい法(道)に従うしかない。
悟りの内容や、だれもが覚者となれる可能性があることなど、その教えを広めました。
つまり、「仏・法・僧」に深く帰依することであると、長きに渡り衆生に説法されました。

日本ではまだ縄文時代で、竪穴式住居に住み、狩りや植物などの採集などで生活していました。


釈尊は45年間伝道し80歳で入滅。その後、弟子たちがインド各地に仏教を広め、
紀元前270年頃、インドのマウリア王朝に即位したアショーカ王が仏教を推奨し広めました。

その後、ガンダーラやバーミヤンからシルクロードの長い旅をして、538年(552年という説もある)
に百済から日本に伝わったとされています

538年,(日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年),
百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを
献上したことが仏教伝来の始まりです。

その後,推古天皇の時代に「仏教興隆(こうりゅう)の詔(みことのり)」が出され,
各地で寺院建設も始まりました。
命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して,感謝をし冥福を祈るために
仏像を身近に置きたいと考えました。ここに仏教信仰が始動します。

難波津(大阪府)に着いた聖明王の使者は,大和川を船で上り,初瀬川河畔の
海柘榴市(つばいち:海石榴市−奈良県桜井市金屋)に上陸しました。
7世紀頃,この辺りに大きな市が開かれていました。
また,藤原京時代には,さらに大きく発展し,大阪湾から入ってきた船の港でもありました。
道元禅師略伝(大本山永平寺開祖)

寛元元年(1243)夏、波多野義重公の勧めによって義重公の領地、
越前国志比庄(しひのしょう)に移錫されることになり、約10年間住みなれた京洛を後にされました。
(福井県永平寺町のこと)

本師天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)の遺誡(ゆいかい)に従って深山幽谷(しんざんゆうこく)
に居して一個半個を説得し、一人でも多く佛弟子を育成されることになりました。

翌2年7月、義重公や覚念(一説に斉藤基尚)等の外護者(げごしゃ)によって大佛寺(永平寺の前身)
が建立され開道説法(かいどうせっぽう)されました。
寛元4年6月、47歳の時大佛寺を永平寺と改めて上堂説法されていますが、
それは釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際(じんみらいさい)に
わたって祈念されたものでした。
この頃盛んに修行僧を指導されると共に、教団の確立のために清規(しんぎ)を定められています。


俗性源氏、村上天皇九代の後胤(こういん)内大臣久我通親(ないだいじんこがみちちか)公を父とし、
摂政松殿(藤原基房、ふじわらもとふさ)公の女(むすめ)を母として、
正治2年(1200)京都に誕生されました。3歳で父を失い、8歳で母の亡(ぼう)に逢い、
世の無常を感じて13歳の春、比叡山横川般若谷(よかわはんにゃだに)に出家されました。
なぞにつつまれた継体大王とは・・・

継体大王は、さまざまな謎に包まれた人物です。生まれた年がはっきりわかりません。
亡くなった年齢も諸説があります。
大王になる前、どこで生まれどこで育ったかについても諸説があります。
はっきりしていることは、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇だということです。


継体大王は近江で生まれ、福井平野で育ったと日本書紀などに書かれています。
以前は、これを疑問視する見方もありましたが、最近の考古学と文献学の成果から、
福井の強力な勢力を背景に育ち、成長し、北陸、近江、尾張などの豪族の力をバックに、
中央に進出した人物だということがほぼ分かってきました。

といってもどんな人だったのか、なぜ急に越前から天皇になるような人物が出現したのか、
どんな力が背景にあったのか。
継体と中央との既存の中央の勢力との力関係がどうだったのか。

まだまだ不明なことばかりです。

継体の福井とのかかわりと、様々な謎を考えますと、
ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。

男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て
大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。
これが現在の足羽神社である。

次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで、
湿原の干拓に成功した。
このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。

ちなみに弊店は日野山の麓・日野川河畔に位置し、地下水のきれいな土地柄であります。
その最適な条件から、我が地は食品製造業が多く存在する場所です。

続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。
天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて、
御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。
このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。

お願い:上記以外にご存知の方は教えてください
       貴重な知識をお待ちしています

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